東海科学機器協会の会報

No.353 2015 新年号

会員だより 子どもの時の思い出

㈱大島硝子 代表取締役社長 大島 光長

 私は戦前、日中戦争が始まった頃に名古屋で生まれた年寄りです。勿論、そんな頃の思い出は殆どないのですが、太平洋戦争が勃発した1941年頃からは色々な思い出がよみがえって来ます。食べる物にも乏しい子ども時代、テレビもラジオもない、本も読ませてもらえない頃、勿論、車も全く走っていませんでしたから、朝から晩まで、戸外でかくれんぼ、戦争ごっこ、ずい分遠い所まで足一つで出かけて行ったものでした。

 そして、軍需工場も多かった名古屋は連日連夜、大空襲、全市廃墟と化して終戦となりました。ちょうど私は小学三年生で、学校も再開されたものの教科書もなく、午前中だけ二、三時間行ったり、午後から登校する日もあったり、ろくに勉強しないでも良かったから、子どもにとっては良い時代でした。

地下鉄大曽根駅E6番出入り口前

地下鉄大曽根駅E6番出入り口前

 

そんな頃、ようやく父が硝子商を始めて、現在の大曽根の地に居を定めました。家の前を名鉄瀬戸線が走っていました。柵があって、その中に入り、線路際を遊び場にして過ごす日々でした。柵には配達に使う自転車がたてかけてあり、ごみごみしていました。父はゴミがたまると柵の中に入って線路端で燃やしていましたが、ある時そのゴミが風にあおられて大きな煙となって電車が止まってしまったことがありました。近くの駅から駅長さんが飛んできて、「こらあ、このゴミをすぐ片付けなさい。」父は「この付近のゴミを片付けて清掃に協力しているんだ。ちょっと待て。」こんなやり取りがあって、子ども心に忘れられない思い出として今も懐かしく思い出されます。

 その線路も今は高架となって頭の上を通っています。町並みもガラッと変わって昔の面影はありません。ここ大曾根は名古屋北東の玄関口、下街道(名古屋と中山道を結ぶ今の19号線)、瀬戸街道の合流点として発展してきました。今も大曾根駅西側に昔の石碑が残っています。「右いゐだみち(飯田道)」「左江戸みち(中山道)、ぜんくぉうじみち(善行寺道)」と彫られています。
一度、ご覧下さい。