東海科学機器協会の会報

No.321 2008 夏号

[ 会員だより ] 治水神社を訪ねて

株式会社チノー 名古屋支店
森山 文隆


1401 この2月に東京より転勤となり、前任者に代 わりTKKの会員にさせて頂きました。紙面を お借りし失礼ですがよろしくお願い致します。 単身赴任、休日は健康と余暇時間の活用のため 歩き回り、名古屋市営の『ドニチエコきっぷ』 の特典を活用しています。最近は除々に距離を 伸ばし、先日は木曽三川公園辺りを、10キロ程 散策しました。
この地域は、『宝暦治水』と呼ばれる歴史的な 治水工事が行われた場所で、教科書にも出てい る話との事ですが、改めて簡単に紹介します。
度々の水害に苦しめられてきた輪中の村々の願 もあり、宝暦3年[1754年]に徳川幕府は薩摩藩 に治水工事のお手伝い普請を命じました。これ には薩摩藩の勢力を弱める策略もあったが、家 老平田靱負{ゆきえ}は工事奉行として1年3ヶ月 の末難工事を完成させました。
工事は幕府の度 重なる方針や計画の変更や大雨による工事のや り直しなどで困難を極め、40万両(約300億円) の予定をおお幅に超える巨費を要し、また多く の犠牲者を出しました。平田靱負はこれらの責 任を取り、報告書を書き終えた後切腹しました。
工事は完璧に行われ、時間をかけた念入りの検 査でも何一つ悪い所は見つからず、短い年月で これだけの難工事を成し遂げた事に、江戸から 検査に来た幕府の役人も『お見事でござる』と 感心した程の出来栄えでした。一番の難工事の 『油島の堤防』には、薩摩からの松の苗木が植 えられ、今でも青々と茂り「千本松原」と呼ば れております。昭和34年東海三県を襲った伊 勢湾台風では、新しい工法で作られた堤防は各 所で決壊したが、千本松原周辺の堤防はビクと もせず無傷だった聞き感動しました。

1402 小生、幼少を過ごし出身は鹿児島県で、父か ら『宝暦治水』の話は何度か聞き訪ねてみたい と思っていました。地元の人々の浄財で建立さ れた治水神社は、平田靱負と薩摩藩士の功績を 称え、境内には幕や提灯に沢山の“丸に十の字” があり、鹿児島県人は故郷以外でみる島津の家 紋に、地元の人の暖かさを感じ心厚くなると思 います。実際、88歳の父へ携帯電話で撮った 写真を妹経由で父に見せたら、地元の人の温か さに感激して涙を流して見入っていたとの返信 でした。治水神社を守って下さる地元の方々に、 鹿児島出身者として感謝の念に絶えません。
仕事とは誰か他の人のために役立つ事をする もの、受けた人に喜んで貰える事で、自分の喜 び・生きがいを見出すものであるべきと思って おりますが、この工事に携わった人は、大変な 苦労の中でも、水害から人々を守るという本来 の目的は見失わず、費用の嵩みに嘆きながらも 妥協はせずに、最後まで責任ある仕事を成し遂 げた事に、大いに見習うべきものがあります。
 また、大垣青年クラブでも功績を称え、薩摩 顕彰事業を行い、鹿児島の中学生を親善使節団 として招待したり、慰霊事業に参画されており、 心温まるご好意に心から感謝すると共に、遠い 故郷へ伝えたいと思います。