東海科学機器協会の会報

No.310 2006 春号

[ 会員だより ] 趣味をとおして考える

アズワン(株) 上村康司


15_016名古屋に赴任して早や2年、まだまだプライベ-トにおいては新発見の連続で、週末はあちらこちらで新鮮で楽しい時間を過ごしております。
私の趣味(釣り)においても同じ感覚の連続です。
初めて釣りをしたのは小学校3年生の頃、かれこれ37年くらい前になります。近所の池でのフナ釣りに始まり、高校時代にへら鮒釣りに熱中。地元の競技志向団体に入会加盟し、籍を置いていた15年間は諸大会・競技会に出場し勝つことに満足し、また、自分の技術の向上に励むことだけを考えていたような記憶しか今振り返ってみても残っていないような気がします。
今思えばガツガツとした、釣りはしていても魚を楽しむ趣きはなく上手くなること=人より釣る=勝つことが目的でストレスを抱える趣味だったように感じます。この考えには賛否両論あるでしょうが、自分の価値観の変化によるところが大きいと感じています。
現在は15年程前に始めたチヌ(黒鯛)釣りにはまり、へら鮒釣りは一時休止中。転勤族の私にとっては赴任する度に馴染みの渡船屋や船頭さんとの人間関係や対話を楽しみながら釣りを満喫しています。
釣行ごとの海の色の違いや季節による景色の移り変わり・潮の香りの強弱を肌で感じ、釣りが終われば船頭さん宅で一緒に食事をいただきながら(さすがにお酒は我慢、我慢)釣り談義に花が咲いたり、帰路の途中何か産物があれば土産に買って帰ったりと、釣れても釣れなくても自分の満足感以外に自分一人遊びに行く後ろめたさからか家族の喜ぶ顔でホッと安堵感にひたったりしています。
たくさん釣れても全て持ち帰るのではなく、必要外の魚は海に帰してやりながら「今度また自分のハリに掛かってくれよ」と今日への感謝と次への願いをこめながら、趣味としての釣りを楽しむ自分に満足しているような気がします。釣行する限りは、当日は誰よりもたくさん釣るという気持ちで毎回出かけます。ただ単に「糸を垂らしてのんびりと」なんて気持ちは全くありません。また、チヌ釣りも競技志向性が高い釣りで、自分の技術向上のために以前のように競技団体入会の気持ちがない訳でもありません。
数多く釣った者が勝ち、少ない者が負ける。競技会は釣りの世界でも資本主義の原理によって成り立っているのです。勝ちたいから技術を磨き、負けた悔しさから更なる研究に励む。前向きな考え方で、努力した分報われなければならないことは自分でも十分理解できる。ただ今の時代、何事にも勝ち負けをつけたがる傾向にあるような気がしてならないのです。何事にも向上心を失ってはいけないことは事実です。しかし、私自身勝ち負けに一喜一憂する思いを趣味の世界にまで取り入れることに躊躇しているのも事実です。日々 資本主義の現実世界に身を置き、趣味の世界まで資本主義一色では何か寂しさを感じてならないのです。
アスリ-トとしての釣りを目指すのか、レジャ-としての釣りを目指すかは本人の価値観の違いであり、自分の満足感の高い方を選べばそれでいいことなのも判っています。年初に読んだ『藤原正彦著:国家の品格』も類似内容の訴えのように理解し共感しているのですが、趣きを味わうからこそ趣味なのではないでしょうか。資本主義世界の中で生きながら時に勝ち負けよりも大切なものが“趣き”や“情緒”“敬い”であり、必要かつ見失ってはならないもののような気がしてならないのです。人や物、自然をとおして“趣き”や“情緒”“敬い”“自然観”を身に付けることにより心が和み、心が和らぐのではないでしょうか。
趣味をとおして感じることは、自分が現実の厳しい資本主義の世界で健全な心で仕事をし、生きていけるのは家族の絆や愛情と、かつ情緒を楽しむ趣きや敬いの中に身を置く時間を有しているからかもしれないということです。また、そう思いたいものです。これからも許す限り長い時間、魚と楽しく対話をしていきたいものです。